東京都写真美術館で開催されている写真展に行ってきました。
少し前に、オペラシティーで同じ荒木経惟さんの写真展『写狂老人A』に行っていました。
そのときに「来月も別の場所でやるみたい、行ってみよう覚えてたら。」と思っていて、ちゃんと覚えていたので!
今回は会場内が撮影禁止だったので、文字だけでお送りします。
どんなもの?
写狂老人もキャリアの総覧、こちらも総覧といえば総覧という感じですが、切り取るテーマが異なっています。
写狂老人は、1960年代から現在までの代表的な作品をその作品群ごとにエリアを分けて見せる構成で、まさに写狂だなと圧倒される背景の物量を感じさせました。納得の写狂感でした。
こちらセンチメンタルな旅では、70年代の代表作のひとつ、自身の新婚旅行の様子をおさめた『センチメンタルな旅』以降の活動から、妻の陽子さんをテーマに最新の作品までを抜粋しているような構成でした。
たのしいね!
人の物語みたいなものを初めて感じた写真展でした。
入って出るまで小一時間というところだったと思いますが、映画をひとつ見終わったような気持ち。
荒木さん自身が自身の作品を「私小説的である」と評しているのも納得です。
特に初期の新婚旅行前後の写真は、撮る人の観たもの、あるいは撮られるものとの関係が伺えるような写真が多いように思われました。直接的なんです。
たまたま通りかかったという知らないカップルを撮影させてもらっても、撮影者の「撮りたい」という気持ちが透けて見えるような作品に仕上がっていました。
それが陽子さんの病気をきっかけに、間接的なものに変わります。
例えば、夕食の献立を撮影した作品群などは「撮りたくて撮っているかどうかは分からない。でもとにかくこれを撮らなければならない」といったような印象を覚えました。
陽子さんの入院前後の作品郡は、すこしまた私小説的なものに戻ったようにも見えました。スナップ写真のような何気ない雰囲気のものが混ざります。
陽子さんが亡くなってからの作品の変化は顕著でした。
間接的ですらない、撮影者の戸惑いが写真を観るものにも伝わってしまうような、地に足のつかない抽象的なモチーフ。ひたすら毎日の空を写したものなどが展示されていました。
きっと「撮りたい、撮らねばならない、しかし何を撮ればいいのか分からない」という時期だったのだろうと想像しました。
現像した空の写真に無造作に塗料を塗りつけるなど、物理的に加工するような実験的な作品群もこの頃に現れます。(この写真展がそういう構成に見せていただっただけで、もっと以前から挑戦的な試みが繰り返されていたのかもしれませんが、私にはそういうふうに見えました。)
そのような作品から、徐々に「それでも撮り続けることに決めた」かのような、近年の作品群が後半の構成でした。角度の変わった私小説的な写真に再帰しつつ変化もしているのだなと思いました。
私は写真展にはよく行くほうだと思うものの。
あんまり特定の写真家さんを追いかけたりすることはなく。
無理なく行けそうな場所でやっているものをたまに確認し、チラシに載っているような注目作を眺めて、たのしそうに見えたら行く。みたいなスタイルで足を運ぶばっかりでした。
今年は立て続けに荒木さんの写真展に行く機会があって、すっかりファンになった気分を自覚したので、今後は見かけたら積極的に行ってみるだろうなと思います。
たぶん観れた2つの構成もよかった。500冊を超える作品集があるいう圧倒的なキャリアにリスペクトが予めあった上で、今回ただ一側面を切り取っただドラマをより分厚く観ることができたように思われます。たぶん逆順でもそれはそれで可よね。
美術館などには、あまり観に行かない方も多かろうと思われますが。
わからないなりに眺めてれば観えてくるものって、自分なりで楽しいものだと思うので、よかったらどうぞ行ってみてください。
そんでなにか気がついたら、あなたの話も聞かせてね。
ナカヨシ―👿